日本の学校における「学び」と「創り」 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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日本やアジアの教育では、学習の習得過程にあたる「学び」が強調されるが、西欧先進国の教育では、「学び」とともに「創り」が必須である。 わが国の社会や学校においては、「学び」が強調される。世界からあらゆるものを学ぶというこの真摯な態度によって、日本は短期間で世界の先進国の仲間入りを果たした。しかし、学びのみが学習の総てであるとする価値観が社会を覆い続けると、学習のもう一つの軸である「創り」が欠けてくる。残念ながら、一部の学校や家庭を除くと、創りに価値を置いているところは少ない。学問や芸術や科学技術等は、学びの上に立った新たな知識・表現・技術等、すなわち私の提議する「創り」によって発展してきた。創りでは、個性を認め、人と異なった意見を尊重し、議論・討論を奨励し、思考過程を大切にする。それゆえ創りは、日本の学校を覆っている、教科書内容の理解・記憶とその再生で善しとする学びと一線を画することになる。 「学びと創りの心理学(弓野憲一著, 2013): Kindle版、 "はじめに"より」
学習の二つの領域: 世界の子どもが学校・家庭・地域社会等で行う教科学習・スキル学習・道徳等の「学習:Learning」は、「学び: Aquisition」と「創り: Creation」から成っている。日本も含めたアジアの国々では、「学習」における「学び」が強調され、近代科学を生み出した西欧先進国では、「学び」とともに「創り」が必須とされる。 学びとは: 「学び」の語源は「まねる」にあるという。学ぶことの第一義的な意味がまねるにあるとすれば、まねる人とまねられる人(対象)が必要になる。その対象には、言葉、新しい知識、行動、スキル、価値、好み等々が含まれる。子どもはそれらの諸対象を教師・親・家族・友人・社会を通じて、さらには本・教科書・各種のメディア等を通じて習得していく。 創りとは: 作りと創りの動詞の形は「作る」と「創る」である。英語では"make"と"create"に当たる。両者はどのように違うのであろうか。モデルや設計書があり、モデルをまねて作品を描いたり、設計書に従って「もの」を完成したりするときには、通常は「作る」と言う語が用いられる。しかし幼児のブロックを用いたタワーづくりであっても、他人の作品をまねたのではなく、その子独自のイメージによってそれを完成した場合には、「創る」と言う語が用いられる。このことから、創りには、他の人のまねではなく作者独自の何かが加わったものであることがわかる。それゆえ創りは、美術・音楽や工作のみでなく、学校で準備されているあらゆる教科・特別活動・総合的な学習の中で実施可能である。
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学びは世界の文化や学問・科学技術の成果を学習することが主であるので、@新しい学問や新科学技術を創出する方法をほとんど内包していない。これに対して創りは、最初からその方法を内包しています。学びを強調する日本の教育の限界がここにあります。日本において新たな学問や新科学技術を大いに創出するためには、小学校時代より創りの教育を増やす必要があります。 A学習の効率に関しては学びの方が格段に高いです。なぜなら、教科の構造と内容を熟知した教師が教えるので、生徒は教材の核心を把握し、教材に現れる概念間の関係等も含めて、短時間で容易に高い理解に達する可能性が大であるからです。他方創りは試行錯誤を伴うので時間がかかるし、生徒一人ひとりの理解力等の差がでてきやすいです。B教材の真偽に関しては、学びではほとんど検討しません。全てが真であるところから出発します。この習慣が抜けないと、インターネットから得た情報・知識の真偽を疑わないで、議論に援用することが起きてしまいます。C知識の範囲に関しては、教師や学習者が配慮を欠くと、学びは教科書の内容に限られてしまいます。そして、D知識の忘却に関しては、学びは、他教科の類似の内容や現実の場面への適用があまり考慮されないので、これが起きやすい。創りは、自己が深く関わって学習が進行するので、忘却が起きにくい。E学習に対する責任に対しては、受動的な学びでは、これは低いです。主体的な学びでは、これは中でしょう。創りでは、自らが積極的にかかわらないかぎり学習・創造は進展しないので、責任は高です。F知識に対する自信では、創りは間違いをくり返しながら真の知識を創り上げていくので、知識に対する自信が高いです。G学びは、自己関与が低くても成立します。しかし創りは高い自己関与を必要とします。学びは正解にたどりつけば終わりです。H議論の有無に関しては、学びではほとんど必要としません。創りでは「私の考え・アイデア・仮説等」を人前に出して、よりよい方向に発展させようとするので、議論が前提となります。I議論に使える知識であるかどうかに関しては、学んだ知識はあまり使えません。なぜなら「本に載っていた」「先生が言った」という程度の知識では、論客の鋭い指摘をくぐり抜けることがむずかしいし、また創りの過程を省略して効率的に学んだ知識は、確かに「私の知識である」「知識に確信がある」という実感が乏しいので、安心して議論に使えません。これに対し、創りの過程を含んだ知識は、知識に対する自信とともに、試行錯誤の中での失敗の事例も多く含んでいるので、議論に使えます。J創造性の伸張に関しては、教科書の内容理解を優先する学びではあまり期待できません。これに対して創りは、それを伸張することが大いに期待できます。K思考の範囲は、学びでは狭く創りは広いです。L仮説の設定は学びではあまり必要ではなく、創りでは必要です。M仮説を検証する方法は学びでは既知の方法で事足りるのに対し、高いレベルの創りでは新たな方法が求められます。N推論のレベルは、学びは低く、創りは高いです。最後に、O場の雰囲気は、学びは厳粛であって、創りは自由でのびやかです。 |
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グローバリゼーションの世界では、学びとともに、創りが必要です | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
インターネットを通じて世界が結びつき、情報が氾濫し、知識が爆発的に増大するこれからの世界を生きるには、日本やアジアで特徴的な「学び」のみでは足りず、学校、社会、職場、人生、等々において多くの「創り」が必要とされます。これまでは、「知識の量」が学校の入試や各種の試験で問われてきましたが、学校・大学で修める基本的な情報・知識は、どこにいても携帯・スマホ・PC等を通じて瞬間的に得ることができるようになりましたので、得られた知識等を基礎にして、いかにして「新たな価値ある知識・スキル」をつくりだすかが、現在および未来の児童・生徒・学生・社会人の欠くことのできない「素養」となります。 |